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新しい年のはじまりに

 

新しい年のはじまりに。 

今よりもっと見晴らしのよい場所まで行けたらと思う。そこで美しい世界を見ることができたらと思う。そして望んだ場所まで行けなかったときにも、その場所まで行こうとした道程が、その努力の痕跡が、自分の人生そのものなのだと、正当化ではなく、納得してそう思うことができたらと思う。

また1年が終わるとき、今よりも描いた場所に近づいていられますように。

心が癒えるということ①

 

私は20才から26才の終わりまで7年間、心療内科でもらった薬を服用していた。

初めて心療内科を受診したのは高校2年のときで、20才で限界に達して、それで私は自分から医師に薬を飲みたいと申し出た。

抗うつ剤を飲むことになったという事実は私の自尊心を致命的に損なった。白い錠剤を見ながら、私は自分がもうまともな人間ではなくなってしまったのだと考えていた。そして一度薬に手をつける以上、もし今後薬を止められたとしても、服用歴のある自分は一生まともな人間には戻れないのだとぼんやり考えていた。それから周りは薬を飲む私を廃人扱いするだろうと絶望していた。

それでも私は薬を求めた。そのときは頼れるものには何でも頼らないと生きていけないような状況に追い込まれていて、自分を救ってくれるものなら薬でも何でもよかった。医者でもカウンセラーでも占い師でも誰でもよかった。私は虚ろな目で白い錠剤を眺めて、水で飲んだ。錠剤は風邪薬のような普通の薬と同じように身体の中へ流れていった。

 

私は一応社会恐怖(俗に言う対人恐怖症)という診断で薬をもらった。別に対人恐怖だけが問題だったわけではなかったが、薬を処方してもらえさえすれば診断は何でもよかった。自分で薬を調べていて、抗うつ剤の中でもパキシルが欲しかった。パキシルが処方されたので後は何でもよかった。

 

自分にも他人にも、過去にも現在にも将来にも絶望していて、何かとにかくジャンクフードを食べ続けていた。セブンイレブンマクドナルド、ミスタードーナツ…。当時よく通った店を思い出す。ミスタードーナツの女性店員はいつも明るかった。それが私をより暗くした。明るさにまず苛立って、次に怒りが沸いてきて、最後に悲しくなるという変遷をたいてい辿った。店員は頻繁に20個も30個もドーナツを買っていく私を何者だと思っていただろうと思う。パーティでも開くのかと思われるドーナツの数と、虚ろな雰囲気の私とを、どう整合させていただろうかと思う。

 

1つ目のドーナツはおいしかった。3個食べ終えたあたりから甘さに気持ち悪くなってきて、5個目以降はもう吐き気しかしない。頭が狂ってマシーンのようにドーナツを貪るだけだ。

しかし1つ目のドーナツがおいしいことが、その美味しさが、何か吐き気よりも悲しかった。その悲しみの質感を忘れることはない。

彦根について④

 

京都に出てからのことは書こうとは思わない。私は少しずつ幸福になろうとしていて、そして幸福について語ることほど愚かなことはない。

18才から必死に生きて、30才の射程圏にまで入った。しかしまだ結末は迎えていない。私はまだ幸福も不幸も手にしてはいない。

そのはじめ、私は自分を変えたい、変えなければいけないという欲望に突き動かされていた。変えることができたこと、結局は変えることができなかったことがある。別に変わらなくてもよいのだと受け入れられたことと、そうではないことがある。年月を経て、初発の欲望は薄れていった。それは自分自身と折り合いをつけることができるようになってきたということなのだろうと思う。

しかし、現在の自分に、自分の人生に満足しているのかと言われればそうではない。幸福を手にするためには、まだもう少し必死に生き続けなければならないのだと思っている。

私は何を求めて必死に生きてきたのだろうか?私の記憶には片方に手に入れたものがあり、もう片方に叶わなかったことがある。しかし私は結局何を求めているのだろうか?そう思うと恋人に優しく抱きしめてもらったことを思い出す。胸にうずくまったときの恋人の柔らかさと温もりを思い出す。私はあの優しい世界を求めているのだと気づく。私はあの優しい世界を求めているのだ。優しい世界を手に入れるために私は必死に生きている。この厳しい世界で生きている。

 

私は18才から今に至るまで彦根と京都を行ったり来たりしている。

当初は彦根から抜け出したくて仕方なかったが、実際に抜け出して距離を置いてみると、生まれ育った土地に愛着を感じてもいることに気づく。帰省したときにはいつも彦根城の水堀に沿って散歩をする。彦根城下の光景は相変わらず美しく、静かで、空気は澄んでいる。天守閣と櫓、積み上げられた石垣、松と柳の木、水堀とそこに浮かぶ白鳥たち、木と水の湿っぽい匂い、木の葉の揺れ、カラスの鳴き声、微かな車の騒音…。深い呼吸をして私はそれらを感じ取る。それらは私に心の底からの安心感を与えてくれる。私は少し優しくなることができる。

それでもやはり彦根の街が息苦しいことに変わりはない。許せることが多くなったとは言え、彦根に留まりつづけると実家や昔の友達や嫌な記憶から逃れたくなってくる。そうして私はまた京都へ出る。彦根は私にとって安らぎと息苦しさの街なのである。

 

では京都に馴染めているのかというとそうではない。京都は狭いのにいつでも人が流入してごった返しているし、車はたいてい渋滞している。市バスの排ガスが街中に充満しているのか空気は汚れている。夏はコンクリートとエアコンの排熱のせいで不自然に暑く、冬は底冷えする。京都に住んでいて快適だと思ったことは一度もない。

そのうえ、京都では私は何者でもない孤独な一人の人間に過ぎない。京都で、あるいは他の街でもよいのだが、生まれた土地から離れて都会で意味のある何者かになろうとするのなら、自分自身の才能と努力で身を立てるほかない。それは辛くて孤独な闘いである。険しくて困難な闘いである。それでも闘い続けなければ生きる意味がないと言うのは簡単だが、ふとした瞬間に寂しくなることは否定しようがない。彦根の街は息苦しいが、しかし少なくとも私が匿名の代替可能な透明人間であることはない。京都に居ると、時々誰にも本当には求められていないことに怖くなる。不安になると、怖くなると彦根に帰る。そして彦根の街を歩き、自分自身の存在を確かめなおす。そうすると自分が自分の人生をどのように歩んできて、これからどのように歩もうとしていたのかを自然と思い出すことができる。自分自身が今立っている場所を確認することができる。一通り歩いて、私はまた京都へ戻る。

 

そういうわけで私はもう10年以上彦根と京都を往復し続けている。彦根に居れば京都に憧れ、京都に居れば彦根が懐かしくなる。どちらの街にも根付くことができず、根無し草となってふらふらと街を漂っている。

私は自分の居場所を見つけることができるだろうか?おそらく街に根付くことができないのは、自分自身の人生がまだ道半ばであることが具体的な形となって表現されているのに過ぎない。自分の生が意味ある地点に辿り着くことができたとき、私は自然と土地に根を張ることができるようになるだろうと思っている。それが彦根なのか、京都なのか、その他の街なのか今は分からないけれど。

それが明らかになるまでは生き続けるほかない。

フリードリヒ・ニーチェについて

 

フリードリヒ・ニーチェは1844年、プロイセンザクセン州レッケンに生まれた。1900年に死去するまで55年の生涯を送ったが、彼の哲学の偉業のほとんどは30代の終わりから40代前半の5年ほどの間に成し遂げられている。そして45才で精神病院に入り、55才までの10年間を狂気のうちに生きて死んだ。

 

ルサンチマン(=恨み/妬み/嫉み)の克服こそがニーチェ哲学の全貌だが、ニーチェ自身の人生はそれほど恵まれていたわけではない。頭痛、眩暈など心身の慢性的な不調が続き、大学を辞し療養していた。大学では同僚に相手にされず、『ツァラトゥストラ』の出版社は見つからなかった。ワーグナーへ心酔したが後に決別し、ルー・ザロメへ求婚して断られた。ニーチェ自身がルサンチマンを克服して死んだのかどうかはよく分からない。

 

君の望むものを本当に限界まで求めるような生き方を、君はその都度の生の場面で選択することができているか?ニーチェはそう問いかける。君は幸福な人や成功者を見て恨んだり嫉妬したりしていないか?そうした恨みや嫉妬が何になるだろうか?君が恨みや嫉妬を他人に向けることで君の生の条件に何か変化はあるだろうか?他人を非難し自分を正当化しつづけることで、君は君自身の目標に向けてもっとよく生きられたはずの君自身の生を損なってしまうのだ。そう迫ってくる。

 

ニーチェの評価は彼の死後に高まった。今では日本人でもニーチェを知っている。ニーチェ自身はそのことを知らない。

彦根について③

 

それから私は京都へ出た。大学に入った18才のことである。

今では彦根の街が好きだと言うほかないが、その当時は彦根の街が息苦しくて、街から早く抜け出したいと思っていた。

私は昔から気弱な性格だった。腕っぷしも強くなかった。小学校や中学校ではいじめられていたわけではなかった(と思いたい)が、いつも身分の低い人間として扱われていた。テレビゲームで遊んでいても自分には順番が回ってこなかった。鬼ごっこのような遊びではズルをされて、ずっと鬼の役をさせられ続けた。意味もなくよく死ねと言われた。不良少年からは暴力を振るわれることもあった。強くなろうとしたが、そうすると調子に乗るなと言われ、また死ねと言われた。結局事態を変えることはできず、私は中学を卒業するまで汚い言葉を浴びせられつづけた。都合の良いように使われつづけた。実際にあったことではないが、当時のことを思い出すと、友達全員のランドセルを持って歩いている少年の私の姿が目に浮かぶ。

両親との関係もよくなくて、彦根の街はとても息苦しかった。実家から、友達から、過去から、記憶から解放されたくて、自由になりたくて、全てを消し去って新しい自分を一からはじめたくて、彦根から抜け出したかった。もっと正確に言えば逃げたかった。実家にも友達にも私は笑って手を振り出て行ったが、心のなかでは誰がもうこんなところに帰ってくるものかと呟いていたように思う。

京都へ出て、新しい人生をここからはじめるのだと心に誓っていた。

彦根について②

 

私は結局恋人を得ることなく高校を卒業した。私の孤独感は誰にも分かち合われることなく、行き場なく私の心に沈殿しつづけた。彦根城下の光景だけが私を癒した。

正確には一度だけ付き合ったことがあった。しかしそれもすぐに終わってしまった。

私は自分の弱さを人に見せないように見せないようにしていた。人は、男子とは、かっこよくて、明るくて、面白くないといけないと思っていた。強くないといけないと思っていた。暗いところは、弱いところは隠さないといけないと思っていた。克服しなければいけないと思っていた。

彼女と話すとき私は緊張していたが、それは私の弱さの一つの形だった。そして私は緊張していることが彼女に知られて臆病な男だと幻滅されるのがとても怖かった。だから緊張していることを必死に隠そうとした。そして緊張してはいけないと思って余計に緊張していた。素直に緊張していると言えばよかったのだが、当時の私にはそう言うことができなかった。人間の弱さとは何だろうか?緊張、恐怖、虚飾、不安、寂しさ、孤独…。いずれにしても私がそれらを誰かにそのまま開き示すことができたのはもっと後のことだ。私は緊張を隠しつづけ、弱さを隠しつづけ、そのうちうまく話せなくなって関係は消滅した。

私は孤独のうちに高校を卒業した。そして彦根を去り京都へ出た。

今では山田詠美の『僕は勉強ができない』について彼女と話した記憶が残るだけだ。

「怒んないでよ、秀美くんたら。皮を剝いても野菜じゃ仕様がないわよ。その内、人の視線を綺麗に受け止めることが出来る時期が、きっと来る。その時に、皮を剝く必要のない自分を知れれば素敵よ」

彦根について①

 

彦根について書く。ここからブログをはじめる。

彦根は私の生まれ育った街だ。

かつて徳川家家臣の井伊家が彦根藩を治め、私が生まれた頃は井伊家の末裔が市長をしていた。昭和の終わりの話だ。人口10万人の落ち着いた城下町で、桜と紅葉の季節には彦根城へそれなりの観光客が訪れる。

私はこの街が好きだ。私は彦根のなかでも彦根城へ徒歩10分圏内の土地で生まれ育った。幼いころは祖父母に守をしてもらっていたが、そのときによく天守閣へ登ったり、水堀を散歩し、堀にいる白鳥に食パンをやったりしていた。祖父母との穏やかな交流の記憶である。

 

通っていた高校は城の内堀と外堀の間にあった。もとは彦根藩の藩校が位置していた場所だったらしい。私の高校生活は控えめに言っても明るいものではなかったし、ほとんどを孤独のうちに過ごしたが、登下校の街並みは好きだった。特に秋の季節の下校が好きだった。少し寒く、そして暗くなるのが早い。水堀に沿って植えられている柳の木が秋の風に揺れて音を立てた。街灯がオレンジ色の明かりを等間隔に灯していた。感傷的な光景に私も感傷的になった。私はまだ少年だったのだ。私は城の堀に沿って道を歩いた。ほとんどいつも一人で歩いていたが、感傷が孤独感を癒し、また孤独感が感傷を増幅させた。

いつか恋人ができたら一緒にこの道を歩きたいと思っていた。そして歩きながら、私が感じる孤独感について話したいと思っていた。そしてその孤独感を受けとめて欲しいと思っていた。 

綿矢りさ芥川賞を受賞した時代の話である。

「認めてほしい。許してほしい。櫛にからまった髪の毛を一本一本取り除くように、私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何一つ思い浮かばないくせに。」(『蹴りたい背中』)